療養型病院〜終末期医療と絡めて〜

 母親のことは随筆の母親のことに詳しく書いた。2010年3月にS病院に入院二日目に低血糖になり、済生会病院に転院して命は取り留めたが、低血糖脳症で意識が戻らない。済生会は救急病院なのでいつまでも入院しておくことはできない。転院先を探してくれたが、長期入院が必要な場合にどのような病院、制度があるのかが分からない。いつまでも3か月おきに転院を繰り返すのか?この時、病院に救急病院と療養型病院があるのを知った。5月には済生会から療養型の現在のY病院に転院した。

 いざ家族が本格的に入院するとなると色々分からないことがあるが、どこに確認して良いかも分からない。最初の母の入院費は月に12〜13万円掛かっていた。掛かるものはしようが無いと思っていたが、妻の友人にそのY病院に家族を入院させていた人間がいて、12〜13万は高すぎるという。自分達は5〜6万しか払っていなかったという。何故か理由を調べると、“世帯分離”すると安くなるということで、市役所にも確認して、世帯分離の手続きを行ったら毎月の入院費が7万円台に下がった。世帯分離が何を意味して、どういう理由で入院費が下がるのか、全く理解していないが、病院も役所もこういう広報をせず不親切である。そもそも永続する可能性のある入院費の12〜13万円は誰でも支払い続けられる金額ではない。年金定期便で直近通知された年金額は、私が65歳になっても基礎年金と厚生年金を併せた全額で月10万円しかない。これまで平均的なサラリーマン以上の給料は貰ってきたと思っていたが、それでこの金額である。私が母親と同じような状態になったら月に12〜13万円などは払えないのであるから、死ぬか、生活保護しかない。

 母の入院がきっかけでY病院に土日は見舞いに行くようになったが、療養型と言うだけあって、大半は老人である。老人であるが、意識がほとんど無いような人、大声で苦しいと叫び続けている人、ほとんど寝続けている人、病院であるから当たり前であるが、正常な人はいない。見舞いに来てくれる患者はまだましであるが、ベッド脇の台の上に病院が一律に患者に配布したクリスマスのお菓子などが長く放置されているところを見ると、一か月に1回も、年末年始にも誰も見舞いに来ない患者さんがいる。一方で脳もおかしくなっているのであろうが、目もうつろで言動も異常な患者さんのところに旦那と思われる老人がせっせと看病に来る患者さんもいる。

 私の母親はと言うと、私や兄弟が行くと目で私達を追いかけるし、じっとこちらを見るので何となく何かが分かっているのであろうが、話をする訳でなく、言葉は全く発することはない。声が出ないのかと言うと痰が詰まって苦しい時には病室の外遠くにまで響き渡るような意味不明の大声を出すことがある。私の言うことが分かっているなら、目を閉じてみなさい、と言ったりして時々意識を確認するが答えることは無い。人が体に触ろうとすると恐怖心で体をこわばらせる。腕は両腕共に胸の前で防御の姿勢で固まっている。済生会の時にはそのようなことは無かったのでひょっとして現在のY病院で何かあったのだろうか?足も既に固まり始めた。意識の詳しい定義は知らないが、母は生きていて楽かと言うとそうではない。喉に痰が詰まった時の呼吸の苦しさ、胃瘻で胃に湯や流動食を流し込まれた時の顔の苦痛を見ていると痛みや苦痛は普通以上に感じている。気持ちよさそうに寝ていることもあるが、苦痛の方が圧倒的に多いような気がする。

 母に医療費の通知が時々来る。毎月支払う金額は7万円強であるが、実際には毎月40万円以上掛かっているということらしい。年間に約500万円である。人の命は地球より重いなどと訳の分からんことが昔言われていたが、世間に対して申し訳ないという気持ちもあるし、この現状は正しいのだろうかと思う。北九州市で“おにぎりが食べたい”と言いながら餓死する人間がいる一方で、苦しみだけを味わいながら生きながらえさせられる母。医者には延命治療はしないでくれと言ってあるが、冬になるとインフルエンザの予防接種はしますか?と聞かれて、しておいてくださいという自分がいる。社会に出て働いている人間でさえもインフルエンザの予防接種もできない者がいるなかで、寝たきりのいつ逝ってもおかしくない超高齢者がインフルエンザの予防接種を受ける異常。今日の新聞にも『インフル3人死亡 横浜70〜80代の入院患者』の記事。最近この手の記事が多いが、マスコミは何が言いたいのか。老人が病気で死ぬのは当たり前ではないか。老人がインフルエンザで死ぬことがあるのは当然。多分、感染防止の管理に問題があったと言いたいのだろうが、それ程、世間にとって重要な問題か?私は新聞記者の問題意識の感覚を疑う。この手の記事が記事として認められているから俺も載せておこうという糞みたいな記者と編集者の意識のなせる業だと思う。

 朝日新聞1月22日付朝刊に『終末期医療「さっさと死ねるように」麻生副総理、後で撤回』の記事。21日に開かれた社会保障国民会議で、終末期医療にふれる中で「さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」などと発言して、終了後に撤回した。「いい加減死にてえなあと思っても、『とにかく生きられますから』なんて生かされたんじゃあ、かなわない。しかも、その金が政府のお金でやってもらっているなんて思うと、ますます寝覚めが悪い」などと述べたという。

 副総理の立場としてふさわしい発言とは思わないが、言いたいことは良く分かる。ちょっと前の医者たちは、一分一秒でも延命させるのが医者の務めだと言っていた。実際に高齢で老衰としていつ死んでもよいような老人に意識もないのに点滴やらチューブをいくつも付けて、長々と生きながらえさせているような状況もあった。最近やっとこのような医療の見直しが始まった。金の問題を契機にしているのだろうが、本質は金の問題ではない。家で生まれ、家族に囲まれながら家で死んでいた人間が、ここ40年位の間に病院で生まれ、病院という白い壁で囲われた味気ない空間でチューブに繋がれながら死んでいくのが当たり前になった。

 母は低血糖脳症と言う原因不明の病に倒れ、次の死は自分の番と言う恐怖心からは逃れられたかもしれないが、慢性的になった誤嚥性の気管支炎や肺炎によって生じる痰が喉に詰まって呼吸が苦しくなる苦痛に襲われる毎日を暮している。また、毎日痰を取るための吸引も苦痛だろう。肺炎になって逝こうとしても病院はX線撮影をして、抗生物質を投与して回復させる。仮に母がインフルエンザにでも掛かって逝こうと思っても、そんなことは病院としては許されない。マスコミに袋叩きにされるからである。また、馬鹿息子がインフルエンザの予防接種を打たせるものだから、なおさら極楽浄土に行くことはできない。

 最近、見舞いに行くたびに、お念仏を唱えることの出来なくなった母の代わりに御文章の聖人一流の章、末代無智の章又は領解文を声を出して唱える。南無阿弥陀仏と何回も声に出して唱える。母にしてやれることはそれ位しかない。

 自分は家の仏壇の前で死にたいと思っているのだが、そんな贅沢なことは平民には許されない世の中になった。“おにぎりが食べたい”と言いながら餓死させられる人間や種々の理由で年間30000人の働き盛りや若い人間が自殺するのを放置しておきながら、一方でいつ逝ってもおかしくない一人の意識の無い老人に年間500万以上の公的資金を使って無理やり生きながらえさせる社会。麻生副総理ではないが、「さっさと死ねるように」社会の意識改革が必要だと思う。

(2013年2月3日 記)

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